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zoom RSS 漢字は王仁博士が日本に伝えたとあるが、朝鮮の文献にはずっと後になって登場。日朝合作の面もある。

<<   作成日時 : 2017/05/07 05:37   >>

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 古事記、日本書紀には漢字は百済の王仁博士が論語、千字文を携えて日本に伝えたという記述がある。しかし日本にやってきた学者が王仁という名であったか、論語、千字文を持ってきたかについては何も証明するものがないという。
 特に千字文は疑問が多い。普通「千字文」と言えば「天地玄黄、宇宙洪荒……」で始まるものを指すが、これが成立したのは6世紀前半で、応神天皇の在位270〜312と合わない。というわけで記紀の「千字文」は何を指すかについて諸説ある。
 また肝心の「王仁博士」は朝鮮ではずっと後になって登場する。何と18世紀後半あるいは19世紀前半だ。しかもこれは日本語の文献の引き写しでしかないという。
 しかし韓国には「王仁の遺跡」が存在し、観光名所になっているというのだ。全羅道のヨンアム郡に記念物として指定されている。この遺跡には王仁博士の位牌と肖像画が祀られている「王仁廟」や「展示館」もある。この場所が王仁博士の生地であったという根拠は全くない。
 さてはこれも例によってデタラメがいつの間にかホンモノになってしまう韓国のいつものやり方かと思うとそれは違うのだという。正解は数十年にわたる「日韓合作偽史」の一例なのだ。
 日韓併合にあたり朝鮮人を懐柔するために様々な方法を用いた、とくに記紀の記述を無理やり朝鮮とこじつけようとした。それには王仁博士が好都合だった。文明の進んだ朝鮮半島から野蛮な日本へ文物を伝えたとあれば、朝鮮が上、日本が下という図式になり、朝鮮が日本に併合されたという感情を少しでも和らげることができると考えたのだ。 また上野公園には「王仁碑」があり、大阪には「王仁塚」もある。いずれの場合にも当時の有力政治家が絡んでいる。
 「王仁」はヨンアムで生まれたと言う説はまず日本人がでっち上げそれを韓国人が信じ込み、さらに日本人も信じ込んでいるというのが本当のようだ。
 しかし「王仁博士」、その生家の真偽は別にしても漢字は韓半島を通じて日本に伝わったことは間違いないだろう。特に百済との関係は重要だろう。ヤマトと百済は密接な関係にあった。そうでなければ百済の危機に際してヤマトが援軍を出すなどはありえないのだ。
 本来は朝鮮側の文献が数多く残っていればもっと確実な日韓交流史が書けるはずだがほとんどないのだ。なぜ残っていないのか分からないが残念だ。文書を保存するという考えはなかったのだろうか。
 今回は、野平俊水、『日本人はビックリ!韓国人の日本偽史』による。

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